後期ボルノウの思想を代表する著作の初邦訳。教育学の中で軽視されている練習の問題に対し、日本の弓術等の例により人間の内的自由への道として、哲学的・教育学的意味を、独創的な思索で探求する。
Ⅰ章 現代教育学における練習の軽視1 学校と生活における練習2 軽視の理由3 練習の復権Ⅱ章 言語上の予備考察1 言語使用からの出発2 語史からの示唆3 根源への回帰4 礼拝的行動の本質特徴Ⅲ章 練習の「場所」としての実践1 知識と能力2 課題の分離3 例としての判断力Ⅳ章 能力1 言語史的な背景2 ヨーゼフ・ケーニヒにおける、ますます良く出来ることへの意欲3 ヴォルフガング・クロウクにおける無能力の優位4 マルティン・ハイデガーにおける(存在可能)Ⅴ章 練習1 練習の二つの形式2 本来の意味での練習3 教授法的な尽力の限界Ⅵ章 出来のよさ1 完全な能力への喜び2 例として、リルケにおける詩的能力3 遂行の出来のよさ4 出来のよさの可能性における区別5 もう一度リルケ 生活と愛の能力6 練習によって達成され得る能力という言い方の可能性の限界7 能力の有効性Ⅷ章 練習における心的状態1 練習の成果への前提条件2 フリッツ・ローザにおける練習による精神集中の促進3 問題設定の拡大 正しい生活への道としての練習Ⅷ章 古来の日本文化における練習1 練習の高い評価2 弓術についてのオイゲン・ヘリゲル3 デュルクハイム伯爵における練習の機能4 我々自身の問題設定への収穫Ⅸ章 内的自由1 完成された練習における無我2 解き放たれた状態3 ヴィルヘルム・カムラーの場合の根本経験4 自由の最初の暫定的な規定5 願望と能力との一致6 放下7 時間への関係Ⅹ章 内的自由への道としての練習1 練習の必要性2 練習され得る術のもとでの選択3 練習の領域4 幾つかの例Ⅺ章 練習と能力との統一1 実際生活への練習の再帰2 創造における練習3 練習と創造との統一の解消4 分離された独自の練習形式の必要性5 人間関係における練習の不適切さ6 実存的なものへの関係Ⅻ章 教授法的展望1 マリア・モンテッソーリにおける注意深さの分極化2 フリードリヒ・フレーベルにおける「美的形式」の遊戯3 練習の教授法の範囲と課題4 練習の対象としての術5 術と科学の対比6 授業における術と科学7 体育 練習とトレーニング8 結語9 練習の教授法への総括的テーゼ新版への補遺監訳者あとがき